◆要石◆
境内本殿の後方西北5メートル程離れて存在する。
縄文時代より住民の信仰の対象としたものであり、形状凸、往古陽陰を象徴したものといわれる。
鹿島神宮要石は凹形で、一説によるとこの地はかつて鹿島の神領であって、鹿島の要石は鯰の頭を押さえ、礒部の要石は尾を押さえる(地震がおこらない)といわれているが、江戸時代宝暦9年の神社書上帳に此地鹿島と書かれている。
◆後水尾天皇辰筆の扁額「礒部大明神」
◆十一面観音立像
◆薬師如来坐像(鎌倉時代作/茨城県文化財指定)
◆葉室中納言顕孝書
◆社像(奈良時代)
◆十二神・神楽面
◆水戸光國奉納 指樽
◆皇室御書博士賀茂保誠書
◆狗犬(室町時代作/茨城県文化財)
◆文学、芸能に登場する桜川 ◆
◆桜川の桜◆
江戸時代、徳川光圀(水戸黄門)元禄年間(1688〜1703)度々神社へ参拝し、水戸城内を始め千波湖に注ぐ小川のほとりに桜川の山桜の苗木を植え桜川と名付けた。
徳川三代将軍家光が、寛永年間に、四代将軍家綱が、正保年間に桜川の桜の苗木を数百本、隅田川の今の木母寺付近に移植。
天文年間(1741)徳川八代将軍吉宗時代、宝暦年間(1751〜1763)九代将軍家重時代、には『桜川の桜』として江戸表へ桜の名所を作るために、多くの山桜の苗木が移植された。
現在の皇居を始め上野公園・北区飛鳥山公園・新宿御苑・小金井公園などである。
古くから桜の名所として歌に詠まれた桜川の桜。
その中の代表的なものを紹介します。
つねよりも 春べになれば さくら川 波の花こそ まなくよすらめ 紀 貫之
世と共に 流れて久しさくら川 花のしずくを水上にして 橘 枝直
桜川 汀の氷とけそめて 春をよせ来る波の初花 橘 千蔭
みなかみの 木々のしづくのさくら川 花とともにや落つもりけん 尊澄法親王
風吹かば 波も幾重のさくら川 名に流れたる波の音かな 御九条 内親王
秋の夜は 月ぞ流るる桜川 花はむかしのあとのしらなみ 宗尊親王
散るや今 波にも花の桜川 近衛三貌院信伊
水上や まなくちるらんさくら川 流れの末も花の香ぞする
桜川 末の世まてもその人の ことはの花ぞ流れつきせぬ 内藤義泰
身にかへて おしむ桜の命をば 古の花さくや姫ぞまもらん 加藤 熙
■また、桜川は、謡曲「桜川」の舞台としても有名です。
「桜川」は桜川磯部稲村神社に伝わる花見噺「桜児物語」をもとに、世阿弥がつくったものです。
◆謡曲「桜川」あらすじ
九州日向国(宮崎県)桜の馬場の桜子は、東国方の人商人にわが身を売り、その身代金と手紙を母に渡してくれとたのみ、国を立ちます。
母は人商人から手紙を受け取り読んでみると、母の貧しさを悲しむあまり身を売りました、名残惜しいが、母上もこれを縁に御出家下さいとあります。
驚いてあたりを見ると、もう人商人はいません。母は嘆き悲しみ、氏神の木花咲耶姫に我が子の無事を祈り、その行方を尋ねて旅に出ます。
それから三年が経ち、常陸国(茨城県)桜川は丁度桜の季節です。
桜子は磯辺寺に弟子入りしており、今日は師僧に伴われて近くの桜川という花の名所にやって来ます。
里人は、桜川に流れる花を抄って狂う女がいるから、この稚児に見せてやればよいとすすめます。呼び出された狂女は、九州からはるばるこの東国まで、我が子をもとめてやって来たことを語り、失った子の名も桜子、この川の名も桜川、何か因縁があるのだろうが、春なのにどうして我が子の桜子は咲き出でぬのかと嘆きます。
更に、桜を信仰するいわれ、我が子の名の由来、桜を詠じた歌などを語り、散る花を抄い上げ興じ狂います。僧はこれこそ稚児の母であると悟り、母子を引き合わせます。二人は嬉し涙にくれ、連れ立って帰国します。 |